日本の呼び方まとめ
日本の呼び方は色々変遷しましたが、どう変わって行ったのかをまとめました。
日本酒の呼びはにほんしゅ?にっぽんしゅ?お好みでどうぞ。
そもそも日本酒の語源は佐香(さけ)なので、時代とともに呼び方が変わって行っても吝かではありません。
字 | 読み方 | 概要 |
倭 | やまと | 後漢書東夷伝に記述 |
邪馬台 | やまと | 魏志倭人伝に記述 |
大和 | やまと | 元明天皇(661-721)の頃に国名は漢字2字とする事が定められた |
日本 | ひのもと | 大化の改新(646)の頃に誰かが読んでいた |
日本 | やまと | 天武天皇の治世701年の大宝律令で国号が定められた |
日本 | にっぽん | 奈良時代(710-794)に日本の事をニッポンと読むようになった |
日本 | にほん | 室町時代の頃にはニッポンをニホンとも読むようになった |
ヒミコっていつ頃いたの?
邪馬台国と卑弥呼については謎が多い。
そもそも卑弥呼はヒミコを中国が勝手に呼んだ呼称なので、本来は姫巫女の当て字の方が妥当です。
中国は匈奴とか鮮卑とか、他民族に悪意ある当て字を充てていました。
ヒミコの宗女が台与(トヨ)と呼ばれた事から邪馬台国はヤマトと呼ぶのがより正しいでしょう。
で、本題ですが、ヒミコと大和朝廷はどの年代と関係していたのでしょうか?
中国の歴史書により分かっている年表は次の通りです。
57年 倭奴国王が後漢に朝貢し、光武帝から金印を授かる。
107年 倭国王帥升ら 後漢の安帝に生口160人を献ずる。 |
桓帝(146~167)霊帝(167~189)の間、倭国大乱。 |
239年 倭の女王卑弥呼、魏に朝貢し、少帝から親魏倭王の称号と金印を授かる。
248年 卑弥呼の宗女で13歳の台与、即位して倭の女王となる。 |
これと、宮内庁の資料を照らし合わせるとザックリこんな感じとなります。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
神武 | 綏靖 | 安寧 | 懿徳 | 孝昭 | 孝安 | 孝霊 | 孝元 | 開化 | 崇神 | 垂仁 | 景行 | 成務 | 仲哀 | 応神 |
BC 660-585 | 581-549 | 549-511 | 510-477 | 475-393 | 392-291 | 290-215 | 214-158 | 158-98 | 97-30 | 29-AC70 | 71-130 | 131-190 | 192-200 | 270-310 |
| 倭奴国王 | 倭国大乱 | 卑弥呼 |
ヒミコがいたのは14代仲哀天皇から15代応神天皇の頃って事になります。
そしてこれが、邪馬台国の謎をややこしくさせている原因となっています。
神武天皇は、ヒムカ(日向)を出て大和(奈良)に行きましたが、その後も日向にはヤマト国がずっと残っていた可能性は十分に考えられます。
ですので、国の主権を獲った応神天皇の大和王権と、九州で国の主権を持っているヒミコが同時期に存在するのは矛盾が生じてしまいます。
ところで、邪馬台国ってどこにあったのでしょうか?

魏志倭人伝の通りに不弥国まで辿って行くと、上の図のようになります。
しかし、伊都国は糸島の辺り、奴国王に送られた金印は博多で出土されたという事は分かっているので、明らかに間違ったルートです。
この地図を45度回転させて見た所、下の様な図になりました。

どうです?位置がピッタリ合ったように見えませんか。

不弥国まではハッキリするのですが、そこから南水行20日、南水行10日陸行1月と曖昧になるので、勝手に解釈してみました。
日本は最初、北九州の奴国が国を支配していたけどその後国が乱れ、邪馬台国のヒミコが女王になって国がまとまります。
ヒミコの死後国が乱れ、トヨが後を継いでまた国が落ち着くけど、何らかの原因でその後歴史から姿を消しました。
26代継体天皇より以前の年代は歴史の教科書でも正式に断定しているものはありません。
というのも、古事記の上巻~中巻まで年代の改竄が行われた可能性があるからです。
仁徳天皇より後の世代が生きて70~80歳なのに、仁徳天皇が143歳ってちょっとあり得ません。
それ以前も100歳越えの天皇がわんさかいます。
なので、実年齢を半分にしてみた所、以下のような年表ができました。
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
神武 | 綏靖 | 安寧 | 懿徳 | 孝昭 | 孝安 | 孝霊 | 孝元 | 開化 | 崇神 | 垂仁 | 景行 | 成務 | 仲哀 |
BC80-43 | 41-25 | 24-5 | 5-AC10 | 11-52 | 52-104 | 104-142 | 142-170 | 170-200 | 200-234 | 235-285 | 286-316 | 316-345 | 346-351 |
| 倭奴国王 | 倭国大乱 | | 卑弥呼 | 熊襲討伐 | | 新羅討伐 |
そうすると、実に現実的な年代になりました。
ヒミコとトヨの後の時代になって熊襲討伐となり、九州の倭国と大和王権が主権交代する自然な流れが出来上がりました。
その後、奈良に最初に辿り着いた神武を初代の天皇とし、あたかも昔からずっと大和王権があったかのように、しれっと伝承を書き換えられた可能性が想像されます。
古事記や日本書紀に九州の倭国の事が不自然な程に書いていませんが、当時の大和朝廷にとっては不都合な真実があったかも知れません。
タカマガハラはどこ?
ヤマト人が九州に渡ってすぐに日本平定を始めたかと言うと、そうでもなくて、暫くはタカマガハラ(高天原)という処に集落を形成していたようです。
では何処にタカマガハラがあったか?というと非常に難しい。

この図は、日本古来から出雲地方を統治してきた一族の家系図ですが、アマテラスオオミカミはアメノフユキヌと同じくらいの年代っぽいです。
これを見ただけでも日本古来からの民族が土地に根差していたかが伺えます。
スサノオノミコトが追放された根の国は、鳥取~福井辺りではないかと言われています。
また、アマテラスオオミカミの命により、孫のニニギノミコトが天孫降臨する地はヒムカ(日向)といい、今の宮崎県日向市の近辺で間違いないでしょう。
と考えると、タカマガハラは阿蘇山の辺りだったんじゃないか?と消去法で思う訳です。

ただ、ヤマト人は阿蘇山を神格化していただけで、阿蘇山には住んでいなかった可能性もあります。
これに関しては遺跡も何も出てきていないので、正直ファンタジーと思うしかありません。
日本人のルーツ
日本人は一体どこからやって来たのか、実は最近のDNAやゲノムなどの解析によって、だんだんと明らかになってきているようです。
縄文人の80%はアフリカ方面からカスピ海、モンゴル、サハリンを経由して北海道から南下して広がって行ったツングース系だそうです。
また、中東からインド、東南アジアを経由して沖縄から入ってきたのが10%ほど。
これらが混ざって縄文人が形成されました。

下の写真の左側がツングース系だそうです。
日本人に似てますね。

やがて弥生時代になると大陸から様々な民族が流れて行きますが、その中でもチベット方面から中国を経由して半島から日本に来たのがヤマト人。
これが天孫降臨なのかは定かではないですが、彼らは日本古来の民族を次々と征服して行き、日本全国を平定してしまいました。
日本人のルーツは朝鮮半島という説もありますが、朝鮮人は同じツングース系でもエヴェンキ族の系統なので日本人とは違います。

皇室を貶める意図はありませんが、ヤマト人は日本古来の原住民を征服しにきた侵略者なのかも知れません。
ヤマト人は熊襲、出雲、蝦夷などと敵対関係にありましたが、なぜか東南アジア系漁業民の隼人とは結びつきが強かったようです。
尚、現段階の研究で予測されている事なので、将来的には説が変わる可能性があります。
ゲノムの研究はあくまで指標にしか過ぎず、遺跡・古墳・刺青など様々な視点から分析されていかなければなりません。
ヤマト人は中東の文化を持ってきたと言われ、ヤマトはヤフェトがもじったという説もあったり、皇室が所持する八咫鏡にヘブライ語が書いてあるなどの話もありますが、現時点では確たる証拠がないので信じないように。
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