日本今昔小噺

ヒミコっていつ頃いたの?
更新日:2019年4月6日
邪馬台国と卑弥呼については謎が多い。
そもそも卑弥呼はヒミコを中国が勝手に呼んだ呼称なので、本来は姫巫女の当て字の方が妥当です。
中国は匈奴とか鮮卑とか、他民族に悪意ある当て字を充てていました。
ヒミコの宗女が台与(トヨ)と呼ばれた事から邪馬台国はヤマトと呼ぶのがより正しいでしょう。
で、本題ですが、ヒミコと大和朝廷はどの年代と関係していたのでしょうか? 中国の歴史書により分かっている年表は次の通りです。
57年 倭奴国王が後漢に朝貢し、光武帝から金印を授かる。
107年 倭国王帥升ら 後漢の安帝に生口160人を献ずる。
桓帝(146~167)霊帝(167~189)の間、倭国大乱。
239年 倭の女王卑弥呼、魏に朝貢し、少帝から親魏倭王の称号と金印を授かる。
248年 卑弥呼の宗女で13歳の台与、即位して倭の女王となる。
これと、宮内庁の資料を照らし合わせるとザックリこんな感じとなります。
123456789101112131415
神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀応神
BC
660-585
581-549549-511510-477475-393392-291290-215214-158158-9897-3029-AC7071-130131-190192-200270-310
倭奴国王倭国大乱卑弥呼
ヒミコがいたのは14代仲哀天皇から15代応神天皇の頃って事になります。
そしてこれが、邪馬台国の謎をややこしくさせている原因となっています。

神武天皇は、ヒムカ(日向)を出て大和(奈良)に行きましたが、その後も日向にはヤマト国がずっと残っていた可能性は十分に考えられます。
ですので、国の主権を獲った応神天皇の大和王権と、九州で国の主権を持っているヒミコが同時期に存在するのは矛盾が生じてしまいます。

ところで、邪馬台国ってどこにあったのでしょうか?

魏志倭人伝の通りに不弥国まで辿って行くと、上の図のようになります。
しかし、伊都国は糸島の辺り、奴国王に送られた金印は博多で出土されたという事は分かっているので、明らかに間違ったルートです。
この地図を45度回転させて見た所、下の様な図になりました。

どうです?位置がピッタリ合ったように見えませんか。

不弥国まではハッキリするのですが、そこから南水行20日、南水行10日陸行1月と曖昧になるので、勝手に解釈してみました。
日本は最初、北九州の奴国が国を支配していたけどその後国が乱れ、邪馬台国のヒミコが女王になって国がまとまります。
ヒミコの死後国が乱れ、トヨが後を継いでまた国が落ち着くけど、何らかの原因でその後歴史から姿を消しました。

26代継体天皇より以前の年代は歴史の教科書でも正式に断定しているものはありません。
というのも、古事記の上巻~中巻まで年代の改竄が行われた可能性があるからです。
仁徳天皇より後の世代が生きて70~80歳なのに、仁徳天皇が143歳ってちょっとあり得ません。
それ以前も100歳越えの天皇がわんさかいます。
なので、実年齢を半分にしてみた所、以下のような年表ができました。
1234567891011121314
神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀
BC80-4341-2524-55-AC1011-5252-104104-142142-170170-200200-234235-285286-316316-345346-351
倭奴国王倭国大乱卑弥呼熊襲討伐新羅討伐
そうすると、実に現実的な年代になりました。
ヒミコとトヨの後の時代になって熊襲討伐となり、九州の倭国と大和王権が主権交代する自然な流れが出来上がりました。
その後、奈良に最初に辿り着いた神武を初代の天皇とし、あたかも昔からずっと大和王権があったかのように、しれっと伝承を書き換えられた可能性が想像されます。
古事記や日本書紀に九州の倭国の事が不自然な程に書いていませんが、当時の大和朝廷にとっては不都合な真実があったかも知れません。




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